野原の真ん中に椅子が一つ置かれて、野の花に釣られた麦藁帽予と風船がのっている。そのかたわらに、もう一つ、つぷれた風船が落とされている。背後の樹木に鳥が群れ、一羽が木の葉の聞から浮き出ている。
やはリ野原のまん中に、一台のピアノが置かれている。そこに野草がからまリ、花を咲かせている。
ピアニスト用の椅子は無く、代わリに一羽のふくろうが枝にとまっている。どちらも、純然たる幻想絵画である。現実にはあリえない状況であリ、とくに、後者はフィクション以外のなにものでもない。そうした特異なイメージが、なぜ、人びとの心を強くうつのだろうか。
失われたなにものかに対するノスタルジア、絶対にあリえないものへの憧憬……
どのように説明されようとも、人にはみな、幻想を生み、幻想を楽しむ権利がある。
 

週刊ポスト(小学館)より全文



作家は、夜に旅する詩人です。
夜はひそやかに訪れて、苦がい現実を忘却の彼方に消ししずめて、夜ごとに新しい神秘の囁きをひびかせます。詩人は夜の訪れに目を醒まして、心おののき、眸をこらしてさぐります。
そして触れあう奇しき物語が、織細な感情から画面となって現れます。
新制作展は、一時膠着をした日本画に新しい風を吹入れましたが、それは若い樹液がその幹に新生命をあたえるように、日本画に新鮮を復活させたものでした。
そのとき、事実を、事実だけから見る写実とはちがって、空想や詩情の魅力が創造されましたが、実際には、物質的な洋画とちがって、日本画こそ本来は、理外の理を描写して、魅力をあらわす表現なのでした。
その新制作展の真新しい新星として、佐藤昌美氏が現れています。
今回の発表でも、人気なき庭園に、ベンチが青々と冴えるとき、蔦は空中にのぼって、白花がひとり光を点じます。
夜の寂けさに、古城はありし日の物語から、抜け出すように粛然として立ちますが、夜の音なき音に驚くか、それとも物語の使者でもあるものか、騎士もなき白馬が、出現して馳けぬけます。
繊巧をつくして描きつくすところが、この作家の魅力ですが、蔦の葉から深くひろがる空間まで、作宗の感覚はゆきとどいて、作品は妖しくもまた新鮮です。
幻想や詩情の作品は、筆をゆるめると甘さが浮きやすく、最小の部分にも、知覚を光らせて追究することが、制作の生命ともなりますが、いま青一色の制作が・これほどの繊美を訴えるのは、それは、描写が細密なだけではなく、作求が神経をこらして、そのすべてを感興の言葉とするからです。
夜の旅にさまよい出て、夜の妖しさの遍歴に、作家は果しない陶酔の夢見をくみとることでしょう。
日本画は、洋画とちがって肌理の美しい制作ですが、作家はまた磨かれて彫琢をあらわします。
夜の静けさに耳をすませて、私もまたこの繊麗な制作の・いよいよ深い発展を祈りたいところです。
 

1971年 展覧会「夜の森」に寄せて


佐藤昌美の日本画の世界は、なんと甘美な神秘さに包まれ、繊細な叙情の優しさにみちあふれていることか。
5年以上も前のこと、新制作協会の会場で佐藤さんの作品に接して、すがすがしい幻想的陶酔に誘われてからこのかた、この画家の生み出すイメージは、常に私の心に美のオアシスを与えてくれた。
静かな夜である。狐独な魂はそっと抜け出し、さまざまな休験に満ちた過去から、未知を夢みる未来まで駈けめぐり、微妙にもつれあう歓びと悲しみを幾度となく反留しながら、暗示的な形象の影を追う。
佐藤さんは夜の画家だ。夜への畏れも知っているし、夜の安らかさもひときわ愛している。そして、果しない闇の底から囁かれる声を聞きのがすまいとして、この画家は絵筆をとる。
4年ほど前、佐藤さんは「夜の旅」というテーマのもとで一連の作品を発表したことがあった。
妖しい暗さのなかから躍り出る白い馬の高貴な姿、打ち捨てられた鳥籠のなかからさまよい出る小鳥たち、人気のない空問にポツネンと置かれたベンチ……。
それらはすべて忘却の闇のなかから改めて浮び出た親しげな心象のドラマだった。
佐藤さんは魂の童話を夜のなかから掘り起してゆく。その繊細な、そして緊張した精神的な作業は、年とともに明確なすがたとなって画面いっぱいに展開されて来たように思われる。
ここには古代と現代の対話があり、東と西の遠い距離をむすんだ不思議な物語りがある。
佐藤さんは夜の世界を逍遙しながら、いつも新しい別の白然を発見する。
このたびこの画家は、「夜想の森」を主題にして、40点に近い連作を発表すると言う。
私はその作品群の一部を拝見する機会をもったが、そこには花や果物、鳥や猫たち……に心情を託しながら、夜にひろがる画家の心境のういういしい典雅さが、芳香を放っているように思われたものだ。
佐藤昌美は、ことし40歳、創画会の推進力としてたくましい活躍を続けているこの画家に、私は心からの期待をよせる。
 

夜想の森 小品展に寄せて


抒情の宿命への果敢なる闘い
日本画は精榊から絵に入るから、日本画家はまず対象に惚れ込まなければならないと述ぺる画家自身にとって、
物言わぬこれらの主題は、絵であると同時に、画家の偽りのない分身でもあるのだ。

 

たからざ・のりよし(美術評論家)
昭和19年1月1日。東京都世田谷区に生まれる。
昭和42年早稲田大字文学部美術史科卒業。昭和46年同大学院修士課程修了。
武蔵野美術大学講師、女子美術大学講師。
著書に「コロー」(講談社)、訳書に、「エミール・ノルデエ」(美術出版社)、「現代芸術の冒険。鹿島出版会)がある。


佐藤昌美いう名前を知ったのは、たしか7、8年前のことであったと…思う。
その頃の作風は、両家自身が「夜のシリーズ」と呼んでいる幻想的なもので、細い枝や弦草が周密にからみあう奥深い森の一隅に、王国風の椅子が坐る人もないまま虚ろに置かれているというような、きわめて文学趣昧の濃厚な画面であった。


繊細この上ない描写を、一見すると洋画を思わせるほどにバタ臭く、しかも嫌昧のない印象としてまとめあげる力量は、当時から注目された。
もっとも、その頃はいわゆる幻想的な画面がずいぶん流行したということがあり、麻田浩、山本文彦淋といったテクニシャンの画面が、廃物の集積を繰り返し、とりあげていたものだったが、勿諭、日本画の画面にはそうした油絵具とはおのずからことなる雰囲気づくりがまず必要とされたし、線の伝統というものを常に意識せねばならぬ絵の特質は、幻想を打ちだしながら皮相に流れず、むしろ日本画の表現世界というものを、ひときわくっきりと浮き彫りにした点にある。


今思いかえしてみると、「夜のシリーズ」はこうした点からして、ウィーン幻想派の影響をうけながらも、ヨーロッパ絵画の太い造形を、日本の美学に、すなわち線描を基本とした岩絵具の濃淡に転換しようとした試みであったことがわかる。
そしてそれは、言うまでもないことだが、日本画の領域ではあまり例を見ることのない、ユニークなものであった。


明治以後の日本画は、伝統の淵に沈んだ無力な披巧尊重を乗り越える手段として、ヨーロッパ絵画の視覚を活用した。
横山大観、菱川春草の誠み、また、土田麦遷、村上華岳、入江波光の表現には、彼らが日本画の過去と未来をどのようにとらえていたか。
その流れを彼自身の画面でどのように変革しようとしたかがうかがわれる。日本美術院にせよ、国画創作協会にせよ、激しい変革への意欲に燃えた若者たちの団体であった。


戦後にこうした傾向を求めることができるのは、昭和23年に結成された創造美術である。
福田豊四郎、吉岡堅二、山本丘人らによるこのグループは、のちに新制作協会日本画部となり、さらには再び独立して創画会となった。
吉岡堅二の装飾性、福田豊四郎の簡略化、山本丘人の豪放さ、そのどれもが日展や院展の表現とは歴然と異なる方向を目指していたのであり、この冒険を敢てする姿勢なくしては、加山又造も、そしてこの作藤昌美も登場することは難しかっただろう。


「夜のシリーズ」は、当時の流行という側面を確かに持っているが、むしろそれ以上に創画会の雰囲気に、また画家の若さに、深く結びついていたと思われるのである。
多摩美在学中から、佐藤昌美の画面は油絵に非常に近いものであったということを、大磯のアトリエを訪ねて、画家自身から聞いた。画家はもともとは油絵からスタートした人であり日本画に転じてからも、油絵の表現白体には人きな興味を持ちつづけていたのであるから、彼がウィーン幻想派と大和絵の調子とを、ダブルイメージとして掴みとることができたのは、なかば必然のなりゆきであった。その裏付けとなったのは、職人的な、とさえ言っていいような、安定した腕の冴えである。


だいぶ前のことになるが、ある美術雑誌で月評を担当したことがあって、送られてきた掲載誌を見ていると、詩人の清水哲男が創画展評を書いていた。
そこでは10人の10点がとりあげられていたのだが、佐藤昌美の「旅の朝」について、詩人はその繊細さを称えたあと、ちょっと絵を作りすぎているキライがなくもないと言って、この点に不満を指摘している。


考えてみれば、繊細な絵とは大方披巧なくしてはなり立たず、言わば感覚と披巧との微妙な均衡を反映せざるをえないのだが、見る立場からすれば、抒情の創造に技巧の優越をあまりあからさまに確認したくないという思いがあるにちがいない。
椅子、枯木、鳥、これらは佐藤昌美がとりわけ好む主題である。
油絵は形から、日本画は精神から絵に入るから、日本画家はまず対象に惚れ込まなければならないと述べる画家自身にとって、物言わぬこれらの主題は、絵であると同時に、画家の偽りのない分身でもあるのだ。
画家がそうした中に身を置くとき、イメージは周辺部分から姿をあらわしてくる。

薄明の中に弦草や細く鋭い枯枝が無音の硬い夢をまず構成し、やがてその中心部に、むしろ周辺を壊すようにして、鳥が、椅子が、登場してくるのである。画家が絵を作りすぎてしまうきらいがあるとすれば、それはたぶんモティーフとの対話を楽しみすぎたためではなかったか。


佐藤昌美の画面は、その後、幻想性を脱して、日本画の本流へと復帰する。
数年前にたしか渋谷東急で見た展示は、これが同一人であるかと思わせるほどにあでやかな鳥たちで埋まっていた。
夜の死の世界から、真昼の生の世界へと帰還したと言ってもいいかもしれない。


画家の説明によると、これらの鳥たちは、まずラフ・スケッチされる。
そして、その中の気に入った姿を鋏で伐りぬいて、型紙を作る。この型紙を画面の上に自由にに遊ばせるうちにおのずから、絵はさながらイメージそのものの実在を証するように、出来あがるのである。スケッチ・ブックを抜け出た鳥は、この時、もっとも生彩を放って見えるという。
「実際この瞬間が僕には一番楽しいんですよ」と言って画家は苦笑したが、鳥は画面に定着され色彩を加えられ、完成に近づくに従って、画家の手をはなれて、もとの鳥にもどってしまうのである。
一羽の鳥を描きながら、その鳥を鳥でない創造物として画家にひきよせることができたなら、それは具象絵画として最も望ましいひとつの達成であろう。


ここ数年間、素描を基本からやり直している、と画家が語ったのは、おそらくこのプロセスをもう一度桃見すえるためであり、鳥たちを鳥たちとして画家のものとするためであろう。
メディアとしての日本画は、岩絵具自体に油絵具のような深さが求められない。
従ってそれは線によって、平面によって、様式化し、装飾化することを余儀なくさせられるのだが、作藤昌美の世界が大和絵の伸びやかな感覚に一歩一歩近づいてゆきながら、山木丘人のそれといかに異なる道をえらびとるかに、ここしばらくの関心がある。
新しい日本画の表現を今後に拓くうえで、「夜のシリーズ」の試みがいかに有効であったかも、その時あきらかになる筈である。


今、画家は風景画にとりくんでいる。しばらく発表はできないようだが、静物や花鳥を乗り越えた空間の拡がりに、その繊細な描写がどのようなイメージを形づくるかが、期待される。
 

月間アートトップ 郷愁的風景浪漫人 美の賢者たち
佐藤昌美より全文

絵画にはいろいろなもの、人物も歴史も風景も静物も・・・描かれるが、そのほとんどすべてを通して内包され、表出するのは、時間と空間である。
当然そうなるのは、私たちが生活しているのが地球上だからである。この世界はそれらと共に始まり、今も不可分に活動を続けている。
絵画に関しては、それが一々表示されず、説明されないことが多いとはいえ、多くの作品にそれを見て取ることができる。殊にこの画家においては、相当程度に鮮明である。
とりわけ時間の方が。

題名を一通り見ていくと、「木漏れ日」は言うまでもなく、「月」、「宵」、「蛍」、「朝」などという字が付くことで自明で、たとえ題名には無くとも、内容を見ると、「飛翔」では冠雪の輝く富士山は朝か昼だろうし、「花影」も同様で、「竹すずめ」 は早朝か黄昏時であるだろう。

別段このことにこだわる必要はないが、この画家の作品は、全体として、日光と夜光の二種に区分けできるようで、絵画は前者の下で描くものとする通念からすると、このように識別できること自体が特別と言えなくもない。
この時間という視点から改めて見ると、その過半が夜光による、従って、月光を主題にした作品が一際目立つ。

地球の、そして人間の一日は、その約半分が夜である。
それは自然現象としては明暗の変化であり、「夜陰」 という言葉もあるが、しかし、そのすべてが「陰」ではなく、電気が発明される以前においても、太陽とは別の月という発光源があり、月光にはそれ独自の性質とニュアンスがそなわって、特有の美と物語を生んできた。
月も輝くとはいえ、最大のときですら、赫々たる陽光とはまったく異なって、その玲瓏であるさまは、熱を帯びない代わりにまさに清明の極みである。

さて、このことを強く感じて書き綴りながら、ふと思い浮かべたのは、「流泉の曲の聞には月清明の光を争ふ」という「平家物語」第三巻の「大臣流罪」の良く知られた一節である。この画家の四曲半双屏風「冬の月」 や「宵桜」には、この「月清明の光を争ふ」という感じがよく現れている。
屏風ではない大作「湖月」、大作ではない「蛍川」、「月燦々」、「春映」など、特に水を取り入れ、それが流動しつつ反映する一連の作品にその性質が横溢している。
水景を伴わないもう一連の作品-「幻月」、「春宵」、「月燦々」と題する紅白梅と桜の図などは、どこかに禽獣がいて、月光下に憩い、眠るやすらぎに充ちた別の叙情を湛えている。

これらの点において、月光の画家と言えなくもないこの
画家だが、その光に対する卓抜な感性は、対照的な陽光に
対しでも少なからず発揮されている事実を見逃してはなら
ない。
「朝露」 と「朝の雫」二作と「朝摘花」、「松竹梅」、「花影」の清澄な曙光、「木漏れ日」 と「竹すずめ」の淡光の微妙な諧調などを見ていくと、夜光にはない特色が現れていることが感得され、とりわけ「飛翔」を見ると、この画家の画号である「晨(朝)」 の含意が最大に具現しているように思われ、両世界は別段比較するまでもなければ、一方に限定する理由もないことがおのずから判然とする。
一つだけ付け加えるならば、朝夜を問わず共通するのは人物の全面的な非在であること、そしてそれゆえの俗臭との無縁による静謐感は、時には幽玄ですらあるが、何一つ不足を感じさせないのは、どうしてか。何よりもそれは画面に充溢している「光」と、それのもたらすメリット( 美点、力、賜物) であるように思われる。  


2008年 個展「静かな洸景」「風月花逍遊」に寄せて



佐藤昌美さんのこと
佐藤昌美さんは創画会会友で、創画会展に出品される絵はまさに「青の世界」だ。爽やかで深く果てしなく人をひきずりこむ色彩。
えがかれるのは木影と草上にかたむく楽器であり宙に浮く椅子であり孤独な夢である。
また月中の白サギも野のきつねもさびしい情感の青であり、しみじみと静寂なファンタジーの世界である。それは北方を志向する宮沢賢治と同質だ。
ここに賢治作品につかず離れず雪の独自な美を点綴して雅びやかなデュェットを奏でる。
 

雪の童話集(童心社)に寄せて



いま、日本の美術界で、最も充実しているのは日本画であるといわれているが、たしかに、日本国内ではそうかもしれない。
しかしグローバルな点からみれば、これからである。

戦後しばらくは西洋画(油絵)一辺倒の時代で、日本画減亡論まで、ささやかれたこともあったことを忘れることはできない。
この頃、佐藤さんたちは、日本画志望の学生として、多摩美に学んで、いたということであるが、当時を顧みると、あくまで日本画の可能性を確信して、油絵に対抗する制作ぶりに専念する小数の作家が存在したことも忘れてはならない。

たとえば、油絵風の厚塗りが流行し、描線や水墨画などが軽視されたことなど、いまも、その後遺症が残っている。
若い作家たちが、そのいずれを志向されたかは知らないが、こうした、さまざまな洗礼を受けたことは確かである。その試行錯誤の道程が、よかれあしかれ、現在の創画会様式を形成しているように思われる。しかし、今村紫紅や速水御舟が、そうであったように、果敢にコワシてはツミアゲてゆく強靭な意志が要請されているからには、さらに自己の主張を貫らぬいてほしい。
たとえそれが、外来の近代絵画思潮に添うものでなくても、また日本の伝統的古典への新らたな回帰であろうとも、臆することなくそれに徹することが、新鮮な展開を予兆することにもなる。

この度びの、大和や京都の古寺遍歴にしても、また、古典的な富士山へのアプローチにしても、そこに、なにか、現代の鮮烈なイブキを封じこめようとする熱い情感がうかがわれて頼もしい。

それらは、複雑に構成された俯瞰的視角や微妙な階調の雲烟やモノトーンの色調に託した心象表現などに、大画面の出品画とはー昧ちがったデリケー卜な詩情をただよわせている。このあたりに、天性の抒情的資質がこぼれ出ているように思われる。

この展観は、しばらく描きためた成果ときくが、さらに精進をかさねて、独自の抒情的日本美を凝結させてほしい。
 

1993年 佐藤晨 個展に寄せて



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