
抒情の宿命への果敢なる闘い
日本画は精榊から絵に入るから、日本画家はまず対象に惚れ込まなければならないと述ぺる画家自身にとって、
物言わぬこれらの主題は、絵であると同時に、画家の偽りのない分身でもあるのだ。
たからざ・のりよし(美術評論家)
昭和19年1月1日。東京都世田谷区に生まれる。
昭和42年早稲田大字文学部美術史科卒業。昭和46年同大学院修士課程修了。
武蔵野美術大学講師、女子美術大学講師。
著書に「コロー」(講談社)、訳書に、「エミール・ノルデエ」(美術出版社)、「現代芸術の冒険。鹿島出版会)がある。
佐藤昌美いう名前を知ったのは、たしか7、8年前のことであったと…思う。
その頃の作風は、両家自身が「夜のシリーズ」と呼んでいる幻想的なもので、細い枝や弦草が周密にからみあう奥深い森の一隅に、王国風の椅子が坐る人もないまま虚ろに置かれているというような、きわめて文学趣昧の濃厚な画面であった。
繊細この上ない描写を、一見すると洋画を思わせるほどにバタ臭く、しかも嫌昧のない印象としてまとめあげる力量は、当時から注目された。
もっとも、その頃はいわゆる幻想的な画面がずいぶん流行したということがあり、麻田浩、山本文彦淋といったテクニシャンの画面が、廃物の集積を繰り返し、とりあげていたものだったが、勿諭、日本画の画面にはそうした油絵具とはおのずからことなる雰囲気づくりがまず必要とされたし、線の伝統というものを常に意識せねばならぬ絵の特質は、幻想を打ちだしながら皮相に流れず、むしろ日本画の表現世界というものを、ひときわくっきりと浮き彫りにした点にある。
今思いかえしてみると、「夜のシリーズ」はこうした点からして、ウィーン幻想派の影響をうけながらも、ヨーロッパ絵画の太い造形を、日本の美学に、すなわち線描を基本とした岩絵具の濃淡に転換しようとした試みであったことがわかる。
そしてそれは、言うまでもないことだが、日本画の領域ではあまり例を見ることのない、ユニークなものであった。
明治以後の日本画は、伝統の淵に沈んだ無力な披巧尊重を乗り越える手段として、ヨーロッパ絵画の視覚を活用した。
横山大観、菱川春草の誠み、また、土田麦遷、村上華岳、入江波光の表現には、彼らが日本画の過去と未来をどのようにとらえていたか。
その流れを彼自身の画面でどのように変革しようとしたかがうかがわれる。日本美術院にせよ、国画創作協会にせよ、激しい変革への意欲に燃えた若者たちの団体であった。
戦後にこうした傾向を求めることができるのは、昭和23年に結成された創造美術である。
福田豊四郎、吉岡堅二、山本丘人らによるこのグループは、のちに新制作協会日本画部となり、さらには再び独立して創画会となった。
吉岡堅二の装飾性、福田豊四郎の簡略化、山本丘人の豪放さ、そのどれもが日展や院展の表現とは歴然と異なる方向を目指していたのであり、この冒険を敢てする姿勢なくしては、加山又造も、そしてこの作藤昌美も登場することは難しかっただろう。
「夜のシリーズ」は、当時の流行という側面を確かに持っているが、むしろそれ以上に創画会の雰囲気に、また画家の若さに、深く結びついていたと思われるのである。
多摩美在学中から、佐藤昌美の画面は油絵に非常に近いものであったということを、大磯のアトリエを訪ねて、画家自身から聞いた。画家はもともとは油絵からスタートした人であり日本画に転じてからも、油絵の表現白体には人きな興味を持ちつづけていたのであるから、彼がウィーン幻想派と大和絵の調子とを、ダブルイメージとして掴みとることができたのは、なかば必然のなりゆきであった。その裏付けとなったのは、職人的な、とさえ言っていいような、安定した腕の冴えである。
だいぶ前のことになるが、ある美術雑誌で月評を担当したことがあって、送られてきた掲載誌を見ていると、詩人の清水哲男が創画展評を書いていた。
そこでは10人の10点がとりあげられていたのだが、佐藤昌美の「旅の朝」について、詩人はその繊細さを称えたあと、ちょっと絵を作りすぎているキライがなくもないと言って、この点に不満を指摘している。
考えてみれば、繊細な絵とは大方披巧なくしてはなり立たず、言わば感覚と披巧との微妙な均衡を反映せざるをえないのだが、見る立場からすれば、抒情の創造に技巧の優越をあまりあからさまに確認したくないという思いがあるにちがいない。
椅子、枯木、鳥、これらは佐藤昌美がとりわけ好む主題である。
油絵は形から、日本画は精神から絵に入るから、日本画家はまず対象に惚れ込まなければならないと述べる画家自身にとって、物言わぬこれらの主題は、絵であると同時に、画家の偽りのない分身でもあるのだ。
画家がそうした中に身を置くとき、イメージは周辺部分から姿をあらわしてくる。
薄明の中に弦草や細く鋭い枯枝が無音の硬い夢をまず構成し、やがてその中心部に、むしろ周辺を壊すようにして、鳥が、椅子が、登場してくるのである。画家が絵を作りすぎてしまうきらいがあるとすれば、それはたぶんモティーフとの対話を楽しみすぎたためではなかったか。
佐藤昌美の画面は、その後、幻想性を脱して、日本画の本流へと復帰する。
数年前にたしか渋谷東急で見た展示は、これが同一人であるかと思わせるほどにあでやかな鳥たちで埋まっていた。
夜の死の世界から、真昼の生の世界へと帰還したと言ってもいいかもしれない。
画家の説明によると、これらの鳥たちは、まずラフ・スケッチされる。
そして、その中の気に入った姿を鋏で伐りぬいて、型紙を作る。この型紙を画面の上に自由にに遊ばせるうちにおのずから、絵はさながらイメージそのものの実在を証するように、出来あがるのである。スケッチ・ブックを抜け出た鳥は、この時、もっとも生彩を放って見えるという。
「実際この瞬間が僕には一番楽しいんですよ」と言って画家は苦笑したが、鳥は画面に定着され色彩を加えられ、完成に近づくに従って、画家の手をはなれて、もとの鳥にもどってしまうのである。
一羽の鳥を描きながら、その鳥を鳥でない創造物として画家にひきよせることができたなら、それは具象絵画として最も望ましいひとつの達成であろう。
ここ数年間、素描を基本からやり直している、と画家が語ったのは、おそらくこのプロセスをもう一度桃見すえるためであり、鳥たちを鳥たちとして画家のものとするためであろう。
メディアとしての日本画は、岩絵具自体に油絵具のような深さが求められない。
従ってそれは線によって、平面によって、様式化し、装飾化することを余儀なくさせられるのだが、作藤昌美の世界が大和絵の伸びやかな感覚に一歩一歩近づいてゆきながら、山木丘人のそれといかに異なる道をえらびとるかに、ここしばらくの関心がある。
新しい日本画の表現を今後に拓くうえで、「夜のシリーズ」の試みがいかに有効であったかも、その時あきらかになる筈である。
今、画家は風景画にとりくんでいる。しばらく発表はできないようだが、静物や花鳥を乗り越えた空間の拡がりに、その繊細な描写がどのようなイメージを形づくるかが、期待される。
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佐藤昌美より全文